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ふるさとの農業を拓いた先人たち

第40話:丹霞郷(飯綱町平出)の果樹栽培の先駆者 ~見晴園の富岡助右衛門~

ふるさとの農業を拓いた先人たち

 

 上水内郡飯綱町牟礼の「いいづな歴史ふれあい館」を訪れると、二階展示室の一画に、ブドウ・モモ・リンゴ・ナシが描かれた、かわいらしい一枚の手ぬぐいが展示されています。それらの果物の間をぬうように、「みはらし果樹園」という文字が見えます。さらに目をこらして見ると、モモに「信州上水内郡中郷村」、ナシには「字平出富岡」と書かれています。

 今回は、明治末年に上水内郡飯綱町と長野市の境にある髻山のふもとで、果樹栽培に取り組んだ富岡助右衛門について紹介します。

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                     見晴園手ぬぐい

 まずは、助右衛門の自叙伝から、彼が果樹栽培に取り組むまでの半生をたどりましょう。明治2年(1869)、現在の松代町東条で生まれました。15歳までそこで育ち、父親の転居にしたがい、柳原村(長野市柳原)に移りました。その後、17年から24年まで、柳原学校(現在の長野市立柳原小学校)に務め、31年に柳原村収入役、34年には上水内郡書記となりました。37年から39年にかけて、日本赤十字社第四五救護班書記として日露戦争に従軍しています。39年に日赤長野支部病院の書記となりましたが、乗った病院船の厳しい環境が原因だったためか体調が優れず、とうとう42年の春、その職を辞したのです。そして、先代から所有していた若槻村吉の山林で療養を始めました。この転地療養が、助右衛門と果樹栽培を結びつけるきっかけになりました。

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 明治42年(1909)5月、助右衛門は吉の山林から髻山のあたりを散策するうちに、柳原学校での教え子だった清水慶造に偶然出会いました。清水が栽培していたブドウやモモの果樹園を見て、ぜひとも教え子の近くで果樹栽培に取り組みたいと考え、清水に栽培適地の斡旋を依頼したのです。その秋には2,000坪の借地を手に入れ、翌年にはさっそくブドウを植えました。

 4年後の大正2年(1913)には、カラブリアン・ブライトン・デラウエーア・ハーバート・ベーコンの5種のぶどうを収穫し、旧松代藩主真田伯爵家、赤十字総裁閑院宮殿下へ献上するまでになりました。そのころには、果樹園の広さは12,000坪、ブドウ6,000本、リンゴ1,000本、ナシ・モモが600本、その他柿や桜桃なども栽培するようになっていました。

 当時の果樹栽培は、経営上の危険度が高かったことから、地代の安い山林原野を開墾して果樹園にすることが多かったようです。助右衛門が果樹栽培を始めた長野盆地西側の丘陵地帯は、干害を受けやすい地質だったため、桑よりもさらに深根性で、乾燥に強いリンゴなどの果樹に適していました。また、未開墾の山林が残っていたことも、果樹栽培の発展には好条件がそろっていたといえます。

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                 見晴園 (大正13年11月3日撮影)

 助右衛門が山林を切り拓いて果樹園にした場所は、明治11年(1878)に明治天皇が北陸巡幸の途中で休憩をとったほど眺望に優れた所として知られており、南東に開けた日当たりの良いところでした。しかし、果樹栽培に対する一般的な見方は、助右衛門自身も書いているように、「園芸事業などは、世間から投機的・山師仕事のように見なされ」、「陰ではずいぶん笑いののしられた」といわれたようです。
 
 明治40年(1907)代に入り、長野県では農事試験場に果樹部を設置したり、県知事が会長を務める長野県農会でも果樹栽培の講習会を開催したりするようになってきました。助右衛門は、42年から44年にかけて、長野県農会主催の園芸講習会に参加し、リンゴ・アンズ・ブドウなどの栽培や実習科目を学んでいます。また、大正5年(1816)には、助右衛門が発起人となり、上水内郡園芸業者会合を開催し、園芸業者組合創立のきっかけをつくりました。その際に作成された名簿を見ると、委員の出身地は、長野町・三輪村・朝陽村・浅川村・若槻村・古里村・神郷村・長沼村・中郷村・安茂里村・芋井村・小田切村・芹田村におよびました。が、そのうち若槻・中郷・神郷の占める割合は4割近くになります。また、リンゴ栽培農家が圧倒的で、モモ・ナシ・ブドウはそれぞれ数軒で、いずれもリンゴとあわせて栽培していました。リンゴ・ナシ・ブドウ・モモの4種類をつくっていたのは、助右衛門一人でした。

 ところで、助右衛門は大正2年(1913)に初めてブドウを収穫しましたが、その年、すでにブドウ酒の醸造や生果の缶詰製造も構想していました。そして、同年9月には、ブドウ酒製造の免許を長野税務署に申請しています。助右衛門が残した『葡萄酒醸造簿』によると、翌年の9月29日、一号桶にベーコン・カトーバ・コンコードあわせて17貫匁を入れて潰溶し、いよいよブドウ酒製造を始めました。

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                     見晴園葡萄酒ラベル 

 そののち、11月13日までに、ハーバート・デラウェーア・エルヴェラ・ゲーテ・ゴルデンチャンピオン・カラブリアン・ヂンファンデル・ダイアナ・アトカ・未詳一号といった品種を合計して約100貫匁(375㌔㌘)のブドウを使い、あわせて六つの桶になりました。ちなみに、このころのブドウ酒は砂糖を入れて甘みをつけていましたので、助右衛門の醸造所でも3盆砂糖を合計して2貫匁以上入れています。11月13日、14日の両日に六つの桶から1石1斗(198㍑)のブドウ酒を搾り、翌15日には税務署への申告を済ませています。

 助右衛門が残した、『大宝恵(おぼえ)』と書かれた大正元年~7年の売り上げ帳簿を見ると、ところどころに販売の折にサービスとして手ぬぐいを渡したという記録が見られます。その手ぬぐいが、ふれあい館に展示されている手ぬぐいなのでしょうか。
 
 昭和8年(1933)、中郷村平出(現飯綱町平出)の髻山の周辺は、モモの花が丹(あか)い、霞のように咲き誇る郷という意味で、「丹霞郷」という名前がつけられ、名勝地として内外に宣伝されました。それは、多少位置は変わりましたが、今日まで続いています。助右衛門とブドウ・リンゴ・ナシ、そしてモモとの出会いが、飯綱町の果樹栽培の基礎を築き、さらには観光客を惹きつける美しい景観を生み出したのです。


 ※いいづな歴史ふれあい館の小山丈夫学芸員からていねいなご助言・教示をいただきました。

 

法政大学史学会評議員
監修  湯 本 軍 一

筆者  舘 林 弘 毅


 


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第39話:信濃町にトウモロコシの栽培を広め、村おこしに貢献した宣教師 ~アルフレッド・ラッセル・ストーン~

ふるさとの農業を拓いた先人たち

 

 信濃町柏原の国道18号線沿いや仁之倉の県道36号線(戸隠線)沿いでは、夏の時季にトウモロコシの直売所や焼きトウモロコシの販売所がいくつも軒を並べています。現在、戸隠線は「トウモロコシ街道」とも呼ばれていて、トウモロコシは信濃町の特産品として有名です。
 

 野尻湖畔の水戸口公園に「A・R・ストーン先生の記念碑」と書かれた石碑が建立されています。この石碑には英語で書かれたプレートがあり、そこには、「A・Rストーンはこの町に大変貢献した格別な人物としてその栄誉を称える」と刻まれています。

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                 水戸口公園に建立されている記念碑


  アルフレッド・ラッセル・ストーンは、三浦綾子原作の『氷点』のなかで、昭和29年(1954)函館沖で洞爺丸が沈没したとき、救命胴衣を見知らぬ人にゆずって死んでいった、カナダ人宣教師のモデルになった人物です。


 実は、信濃町の特産品のトウモロコシとアルフレッド・ラッセル・ストーンとは深い関係があるのです。今回はこのアルフレッド・ラッセル・ストーン(以下ストーンと略します)を紹介します。


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                  アルフレッド・ラッセル・ストーン

 ストーンは、カナダ・オンタリオ州ハイゲート村の出身。アイルランド移民のジョン・フランクリンと妻ヘレナの農家の長男として1902年4月29日に生まれました。父の農業の手伝いをしながら少年時代を過ごし、高校卒業後は季節労働者としてアメリカに出稼ぎに行きました。1920年にトロント大学へ入学。大学ではブィクトリアカレッジで学び、ロンドン教区で宣教師となりました。昭和元年(1926)9月日本に赴任し、東京で日本語を学び、同3年(1928)に長野に派遣され、野尻湖畔に外国人別荘地を開いたD・ノルマン宣教師の後継者としてこの地を訪れました。同7年夏に外国人別荘地に移り住み、北国街道に面したコンニャク屋の二階の一間を利用して古間教会をひらき、農村伝導に力を入れはじめました。


 しかし、当時は昭和の大恐慌時代で国民の多くが苦しい生活を送っていました。なかでも農民の困窮は目を覆うばかりでした。ストーンは宣教師としての布教だけでなく、貧しい人たちのために、農村更生と農業改良運動に寝食を忘れて働きました。
 

 トウモロコシは南米の原産で、日本には江戸時代末期に中国から輸入されたと言われています。信濃町地域で栽培されはじめたのは明治中期以降のことです。当時栽培されたものの品種ははっきりしていません。実の黄色のものと黒味をおびたものの二種類があったらしく、これの自然交配が年々たび重なるにつれて黒と黄色の交ざったものとなり、この地方独特の在来種ができあがりました。


 夏期に食べ残したものは、軒下などにつり下げて干し、これを炒って粉にし、冬期のおやつにしていました。ストーンがこの地に来た当時は、自家用のおやつに食べられる程度で大量には栽培されていませんでした。


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            国道18号線沿いにある焼きとうもろこし販売所

 

 昭和12年(1937)ストーンは仲間とともに野菜組合を設立し、上水内郡古間村の水穴に組合事務所を置きました。カナダから新種のトウモロコシやアスパラガス、トマト、ルバーブなど幾種類かの西洋野菜の種を取り寄せ、農家の人たちに栽培を委託しました。さらに、水穴に木造板葺きの工場を建て、コーンや西洋野菜の缶詰を作り、野尻湖畔の外国人別荘地(当時の別荘数は130軒ほど)をはじめ各方面に販売しました。
 

 ストーンがカナダから取り入れたとうもろこしはクロスバンダムです。クロスバンダムは収量も多くて見た目も良く在来のものとくらべると甘味が多くて、とてもおいしいトウモロコシだったので、数年を経ずして村中に広がったといわれています。これが特産トウモロコシのルーツとなったのです。


 現在栽培されている品種は、ピーターコーン・サニーショコラ・ゴールドラッシュ・味来・優来・めぐみなどです。じつは、信濃町はトウモロコシの栽培に適した地です。朝夕霧の降る日が多く昼夜の寒暖の差が大きいことが実の糖度を上げ、フルーツのような甘さにしてくれます。また、準高冷地帯を生かした酪農も盛んで、そこから出る牛糞堆肥は多肥栽培のトウモロコシに十分に使えるのです。


 また、ストーンは、この地方に400年の伝統を持つ信州鎌の製造に強い関心を持っていました。当時の鎌製造は家内制手工業で、規模は小さく従業員はせいぜい2~3人でした。多くは夫婦二人で鎌の製造をしていました。その仕事ぶりは、旧態依然とした方法で、ほとんどは「手打ち」と言って、主人がハンマーを振り上げ妻が相の手をつとめるかなりの重労働でした。


 ストーンは新潟の三条の金物工場が動力機械化になっていることを知り、相の手の主婦を重労働から開放するため、古間旭町の綿貫恒雄らとともに機械化に取り組みました。古間教会のすぐそばに、建坪13坪ばかりの木造板葺きの鎌製造工場「三友社」を建てました。小さいながらも古間、柏原では他に例をみない本格的な工場で、最新鋭の設備が施されていました。動力ハンマーが使われると、体に無理がかからず、能率はそれまでをはるかに上回り、生産量は手打ち式に比べると三倍以上にも増えました。しかも切れ味は何ら遜色がありませんでした。機械化の目途が立ったところで、同業の人々に動力ハンマーを広めたのでした。
 

 ストーンは、この他にも図書館をつくったり共済制度をはじめたりするなど、地域の社会教育活動や地域文化の発展に貢献する事業をいくつも興しました。

 
 ところが、アメリカとの戦争色が濃くなると、ストーンは敵性外国人として迫害されるようになり、昭和16年(1941)春、やむなくカナダに帰国しました。カナダにおいて反日感情・排日感情がすさまじくなるなか、ストーンは日系人を訪問し、悩みを聞き励ましの言葉を与えるなど、日系人への奉仕と伝道活動を続けました。
 

 終戦翌年、昭和21年(1964)の秋に再来日し、日本の復興のために北海道の開拓地を中心に全国を回りました。洞爺丸の遭難事故で亡くなるまで、多忙な身であったストーンが短い夏期休暇を家族と共に過ごしたのが野尻湖畔でした。

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                古間の教会として利用されていた建物

 

 ストーンが信州農民福音学校の参加者に贈った聖書には、直筆で「土を愛し、人を愛し、神を愛せよ」と書かれていたそうです。ストーンは農民として農村に生き、そこに働きの場を求めました。生活苦にあえぐ農民の生活の向上を願い、農民と苦楽を共にし、一農民になりきろうとしました。ストーンは文化も習慣も違う日本にあって、集会では囲炉裏を囲んで座り日本食を食べ、流ちょうな日本語で語り合っていました。農民の集まりにもう一人、近所の農民が加わったような感じだったと言われています。

 

法政大学史学会評議員
監修  湯 本 軍 一

筆者  高 木 元 治


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第38話: 「綿内蓮根」栽培の先覚者たち~稲田新平・小林善之丞・小林留三郎~

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 穴があいているところから「先が見通せる」と、縁起物としてお節料理に欠かせないものに蓮根があります。蓮根はハスの肥大化した根茎です。

 今回は、長野市若穂綿内地区において、江戸時代から栽培されている、「綿内蓮根」栽培の先覚者三人を紹介します。
 上信越自動車道の須坂・長野東インターチェンジから上り線を700メートルほど進むと、左手の山裾に集落が見えてきます。長野市若穂綿内温湯区です。温湯区では、山麓に接する水田の標高が一番低くなっています。そこは、千曲川の旧河道で、現在は千曲川の後背湿地にあたります。そのため、集落前面の「めえだ」(「前田」のこと)は、「へどろ」が70メートルもの厚さで堆積しており、底なしといわれるほどの湿田でした。土地改良工事のすんだ現在でも、水平だった道路が、片側だけ沈んで傾いているところもあるほどです。

 温湯に住む稲田新平は、集落前の田がひどい深田(湿田)のため、稲の不作に連年苦しんでいました。困っていた新平に、蓮根作りを勧める人がいました。そこで、天保12年(1841)埴科郡東条村加賀井(長野市松代町東条)から種蓮根を取り寄せて、湿田に試作してみました。地味が合っていたのか思いのほか生育がよく、翌13年に掘ってみると蓮根の出来もよく、販売すれば年貢を納めることもできる見通しがたちました。

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写真1 蓮根栽培願書(長野市若穂綿内温湯 渡辺博夫氏蔵)


 そこで、同年8月、新平は親類の佐源太を願い人に立て、温湯前の湿田を蓮田へ転作したいので認めてほしいと、須坂藩に願い出たのでした。

 願いは、聞き入れられました。ところが、蓮の葉の下にスズメが隠れるのを見た、周りに水田を持つ百姓たちが、スズメの食害が増えるとして、藩に蓮田の廃止を訴えたのでした。このため、蓮根栽培は一時中断することになりました。しかし、新平は苦心の末、藩の許可を得て、再び蓮田を作ることに成功しました。

 その後、蓮根の収益性のよさに気づいた村人たちは、稲田から蓮田への転作を進め、温湯を中心に綿内村の湿田に蓮根栽培が広がっていきました。江戸時代も終わりにちかい嘉永年中(1848~1854)、須坂藩家老丸山辰政は、その著作の中で、須坂藩領内の名産の一つに、温湯の蓮根をあげています。明治10年(1877)ごろの資料にも、綿内村では換金作物として、蓮根を年間6400貫目生産し、須坂・長野へ移出していると記されています。明治から大正初期までは、男は天秤棒で、女は木箱を風呂敷に包み背負って、須坂・長野方面に蓮根売りに出かけたそうです。

 新平の導入した蓮根は赤い花の咲く、在来種の赤蓮根でした。粘りが強い肉質で味もよい反面、収量が少なく、地下茎が泥の中に深く入り込むため、掘りにくいという欠点がありました。蓮根商いをしていた綿内村清水(長野市若穂綿内清水)の小林善之丞は、この欠点を克服できないものかと研究を重ね、東京蓮根にたどりつきました。この蓮根には、大きな白い花が咲き、赤蓮根よりも収量が多く、地下茎も地中深く入り込まないのでした。また、外皮が白く、やや粘質が弱い肉質ながら美味しいのでした。明治40年(1907)ごろ、善之丞は、千葉県の浦安(浦安市)から東京蓮根の種を取り寄せ、試作に成功しました。東京蓮根は味もみばえもよかったため、温湯の蓮根は有名になり、近在の町場へ「綿内蓮根」として販売されるようになりました。

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写真2 蓮の花咲く蓮田と、軟弱地盤のために傾いた道路(温湯前田地籍 平成22年8月)


 その後、東京蓮根の栽培は増えていきました。専門に蓮根を栽培する蓮根屋が生まれ、温湯・清水・大橋を中心に、島・菱田・牛池(いずれも綿内地区内)などに蓮田が営まれました。蓮根屋に雇われて、毎日専門に蓮根を掘る「掘り子」も生まれました。当時の農家は、養蚕と稲作で多忙でしたが、蓮根栽培は農閑期に仕事ができ、収入にもつながることが盛んになった理由でした。

 また、井上村・豊洲村(以上須坂市)、小布施村(小布施町)、延徳村(中野市)、木島村(飯山市)、松代町(長野市松代町)などの湿田へも出作りされました。出作り地で生産された蓮根も、「綿内蓮根」として出荷されました。

 大正11年(1922)の河東鉄道(現長野電鉄屋代線)が、屋代から須坂まで開通しました。これも、綿内蓮根の栽培をさかんにした要因でした。輸送上の利便性が飛躍的に高まり販路が拡大し、県内は遠く上田・小諸・佐久、県外は新潟や長岡方面にまで送られるようになりました。綿内駅には、長くもつように洗わず泥つきのまま、ワラで梱包された蓮根が何百と積まれ、連日のように出荷されていったとのことです。

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写真3 綿内蓮根の収穫風景(平成22年11月)
9月中旬~翌年6月ごろまで収穫が続く、国産蓮根の三割を生産する茨城県霞ヶ浦周辺などでは、ホースを使って水を噴出させ、水圧を利用して掘っている。しかし、綿内では、足の付け根まであるゴム長靴とゴム手袋を身につけ、水が干しあがった状態の泥を専用のくわと手だけで慎重に掘り起こして収穫している。


 最盛期の昭和5年(1930)ごろには、綿内地区内に40~50町歩ぐらい、出作りも合わせると193町歩ほどの栽培面積があったようです。

 特産物として名声を誇った綿内蓮根も、昭和5・6年ごろから、連作障害による「枯れ」という病気が出始め、急激に作付け面積が減っていきました。これを憂えた綿内村清水の小林留三郎は、昭和17年(1942)ごろ、支那蓮根の種を千葉県から購入して自分の稲田に試作しました。すると、病気も発生せず、多くの収量をあげることができました。支那蓮根は、白い大きな花が咲き、地中浅く地下茎が走り、掘り出しやすく、病気に強いという特性を持っていました。太く、肉厚で粘り気が少なく、シャキシャキした歯ざわりです。

 しかし、戦時中のこと、食糧増産のために、蓮田にも稲を植えたため、せっかく導入した支那蓮根も、わずかに温湯の「めいだ」に栽培されたのみです。蓮根の肥料によい大豆をやっとのことで手に入れて施し、種蓮根を残したとのことです。

 戦後、こうして残された支那蓮根が、地元綿内はもちろん、木島村(飯山市)や松代町清野(長野市)などの湿田に、綿内の蓮根屋によって栽培されました。

 しかし、その後田畑の耕地整理や土地改良事業によって、蓮根栽培に適した湿田は乾田に変わっていきました。また、蓮根屋の後継者の減少などで、昭和50年(1975)には綿内蓮根の栽培者は約30名、栽培面積も10ヘクタールほどに減少しました。さらに、今では、栽培者は10名弱、栽培面積も3ヘクタールほどになってしまいました。

 現在、綿内蓮根は、地元綿内の直売店や近隣の温泉施設の売店、地元Aコープ店の産直コーナーで販売している他は、贈答品用として扱われているのみです。江戸時代以来、綿内地区の先人たちの努力によって作り続けられてきた綿内蓮根ですが、今や「幻の蓮根」となっています。

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写真4 綿内地区唯一の蓮根直売所(平成22年11月)
次々とお客さんが訪れ、綿内蓮根を買い求めていた



法政大学史学会評議員
監修  湯 本 軍 一

筆者  太 田 典 孝


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